クロネコの塵壺

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松陰の松下村塾に見る「教育とは何か」

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教育問題には以前から関心がありまして、少し前にプログラミング2020年必修化に関する記事を書きました。

家人が読んでいた本を拝借して少し読んでいたところ、教育とは何か、という面白いエッセイを見つけたので、今回はそのことについて書きます。

 

この本は、『司馬遼太郎全講演集[3]1985-1988』という題名で文字通り司馬遼太郎氏の講演内容を文字に書き起こし、まとめたものです。

司馬氏は、従軍した経験からなぜ日本は間違った方向に行ってしまったのか、その変曲点を探求すべく、日本という国を司馬氏なりのやり方で調査し、掘り下げ、分析、考察し、その結果を小説という形で表現した人だと考えています。

講演内容も自身が執筆した小説と関連させた内容を話すことが多く、司馬氏の小説を読んでいる人ならこの講演集はそうでない人に比べて倍以上は楽しめるでしょう。

 

さて、「松陰の松下村塾に見る「教育とは何か」」という講演ですが、司馬氏は教育を考える上で、2つのモデルを紹介しています。

農村と漁村です。

農村は、特に司馬氏が育った頃の農村は、ゆったりしていました。昭和初年の頃です。当時は全体の人口の8割ぐらいが農民です。

残りの2割が都市に出て行き、才能を売り買いする市場で激しい競争に晒されます。

司馬氏曰く、

極端な言い方をすれば、稲も大根も自然に育つ。

いろいろ手間はかかりますが、基本的に農民は、作物の成長の介護をしている。魚を取らなくては食べていけない漁民に比べ、やや暇があります。

その暇に何をするかというと、村の人事に明け暮れております。

 

出典:朝日文庫司馬遼太郎全講演集[3]1985-1988』p.15

 

農村文化は、教育の上でもゆったりとしていた。そういうことが推測できます。

 

一方、漁村の方は、人事などはどうでもいいし、とにかく魚を取らなくては暮らしていけない。天候の変化や潮の流れを読むとか、生活に直結するシビアなことをどのように学ぶのか。

ですから漁には十八歳が十四歳を連れて行く。十四歳は尊敬しきっていますから、癖まで学ぼうとします。

洟のかみ方まで学ぶ。尊敬しないと、十八歳の子の技術が体ごと自分に入ってこない。十八歳の子を精神的に上位に置くことにより、下位の自分に水が流れてくる。 

それを十四歳の子供は動物的に知っているんですね。

 

出典:朝日文庫司馬遼太郎全講演集[3]1985-1988』p.17

 

漁村には、少し歳の上の人から学ぶ、この場合、盗むというのかもしれませんが、という伝統があったようです。

もちろん、農村でもそういう教育のモデルがあったと思います。ただ、漁村の技術教育の方がより必要に迫られ、よりシビアな状況にあり、少し年上の人間がその下の者に体験的に教える、そういう方法論が確立していったのでしょう。

 

そして、司馬氏は最後に松下村塾の話題に触れます。

幕末、明治維新に活躍した偉人を多数輩出した松下村塾にはどのような秘密があるのか。吉田松陰は奇跡の教育者と呼ばれています。

ただ、司馬氏の分析では、吉田松陰は普通の青年だったようです。

松陰が今生きていて大阪府の職員であれば、おそらく社会の中でもそれほど注目を浴びずに生涯を終えたであろう、と。

松陰個人の資質というよりも時代背景や社会の状況などあらゆるものが含まれての吉田松陰であったと分析しています。

しかし、そうはいっても松下村塾の何が違っていたのか、そこには言及しています。

 

一つは、松下村塾のモデルは漁村のそれに近かったということです。教師である吉田松陰の年齢は25から28歳。

集まってくる生徒の年齢はバラバラでしたが、松陰と生徒の年齢はそこまで離れていない。漁師のモデルのように、少年はお兄ちゃんを尊敬します。

他の教師が言っても心に響かなくても松陰が言うと心に響くわけです。

そしてもう一つは、松陰個人の性質にも触れています。松陰は、鼻垂れ小僧たちにも敬語を使っていた点です。身分の低い子にも実に丁寧に話しかけたそうです。

松陰は子供達から自分も学ぼうとしていたようです。

 

このエッセイの最後は、「教育問題は、教育者の問題である。」というむごい結論になります。

松陰のように生徒から自分も学ぼうという姿勢の先生は、この日本にどれくらいいるのでしょうか。