クロネコの塵壺

自分の頭で考えて生きていこう

「野生展 Wild: Untamed Mind」に行ってきた話

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21_21 DESIGN SIGHT ギャラリー1,2 で開催中の「野生展 Wild: Untamed Mind」に行ってきたので、今回はそのことについて書きたいと思います。

「野生」については、以前、「ブリコラージュとは何か」という記事で、レヴィ=ストロースの著書『野生の思考』に少し触れました。この展示もレヴィ=ストロースとその考え方を中心にした展示なのかと予想していたのですが、良い意味で期待を裏切られた展示でした。『野生の思考』は、あまりにも有名なので敢えてはずしたのでしょうか。ただ、展示の内容や基本的な考え方について、彼の思考のエッセンスを感じる部分があったのも事実です。

導入部分のパネルで、「野生」と人間の距離が遠くなっている、ということや「野生」から連想するイメージを解説していました。例えば、粗野、未開、乱雑だけどエレガントで力強い、革新性、開拓される余地のあるもの、など。人間がある分野で発見や発明をする時、「野生」の領域に踏み込まなければなりません。そういう意味で「野生」は人間と切り離せないものだと思います。

一番印象に残ったのが、東洋と西洋の「野生」へのアプローチの仕方の対比です。東洋では、明治時代に博物学者・南方熊楠が、粘菌学などの分野で素晴らしい発見、発明をします。彼は、西洋の科学的な手法を学び、当初はそれをベースに研究を行いますが、やがて素晴らしい発見や発明は、事実の積み上げや因果関係のみで成り立っているのではないことに気づきます。

彼は仏教の「縁起」という概念を大事にしていました。表面的にはAだからBという因果関係があっても大局的に見ればその裏には、CやDという要素も関連し、全ては繋がっている、という思想です。新しい創造や発見をするためには、脳(心)が飼いならされた状態から野生の状態になる必要がある、と指摘しているのですが、そういった発見をするには、論理や因果という手法以外の思考のジャンプ(直感的なもの?)が必要になるということでしょうか。

一方、西洋では夢に「野生」への入り口を求めました。夢は、人間の認識作用が届かない領域です。潜在意識や無意識にアクセスできる場所でもあります。アンドレ・ブルトンが提唱したシュルレアリスムは、夢の中の世界、つまり不条理性、非合理性、非現実性を表現する芸術です。

アンドレ・ブルトンは「通底器」という概念を提唱します。これは無意識の部分で人々をつなぎ合わせているモデルを意味しますが、東洋の「縁起」という考え方に近い気がします。夢は、人が無意識にアクセスし、心の「野生」を開くことができる場所なのかもしれません。

まあ、分かったような分からないような感じなのですが、何かを創造する時には「野生」というキーワードを頭の片隅に置いておこうと思いました。